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釘を打つ音

2018年09月01日[学長メッセージ]

~今でもその音を思い出すと、なぜか涙が出てくる~

 

私の家は藁ぶき屋根の家だった。冬の寒さはとくに身にしみた。どこからともなく冷たい風が吹き込んできて、震え上がった。みんな小さな火鉢の周りに集まって暖を取った。風呂は家の外にあり、桑の木の薪で火を起こして沸かした。風呂を沸かすのはもっぱら子供の仕事だった。薪用に桑の木を斧で割ると、中から白い昆虫の幼虫が出てきた。それを風呂の火であぶって食べると実においしかった。

 

 

中学生の頃は、家にはテレビはなかった。近くの家で毎週「月光仮面」を見させていただいた覚えがある。食事時に子供たちが押しかけていくので、その家の人はさぞかし迷惑されただろう。電話は高校を卒業するまで、我が家に引かれることはなかった。しかし、自分の家がことさら貧しいと感じたことはない。どこの家もみな同じような状態だったからである。

 

 

父は国鉄職員として機関区に勤めていた。田んぼも八反ほどあったので、田植えの時期には家族総出で田植えをした。田植えの後のぼた餅の味を今でも忘れられない。異変は私が大学に進学するときに起きた。私は東京の法政大学に進学することを決めたが、その入学金や東京での生活費を両親は工面しなくてはならなかった。父は祖父と掛け合って、先祖伝来の田んぼを売った。たしか坪五百円ぐらいだったと思う。私の東京での生活費を仕送りするためには、国鉄職員の給料だけでは足りなかった。父は夜勤から帰ってくると、ほとんど仮眠もとらずに日本ラインの船頭のバイトに出かけた。木曽川の激流を必死に櫓をこいで下ったのだろう。それが終わると、父の弟がやっているプロパンガス屋の配達のアルバイトをした。もちろん百姓仕事をしながらであった。母はバイクに乗って近くの工場に通いだした。夜は夜で、黒板消し作りの内職をした。

 

 

冬休みに私が東京から帰ると、父と母が薄暗い裸電球の下で、背を丸くかがめながら黒板消しに小さな釘を打っていた。二人とも体が冷えるので、綿入れのようなものを着ていた。鼻をすすりながら、手を休めず釘を打つ。今でも、そのトントントンという音が耳に残っている。その音を思い出すと、なぜか涙が出てくる。確か一個作って1円か11円にしかならなかったと思う。それでも一生懸命作って内職代を稼ぎ、私に仕送りしてくれた。翌年、年子の弟がやはり法政大学に入学した。両親は今までの二倍の生活費を東京にいる私と弟に送らなくてはならなかった。朝早くから夜遅くまで働きづめに働いていたが、ただの一回もその苦労を私たちに語ったことはなかった。自分たちは充分な教育を受けられなかったからこそ、子供たちにはしっかりと教育を受けさせてやりたいと考えていたのだと思う。両親は私たちにお金は残してくれなかったが、それよりもはるかに貴いものを残してくれた。教育と子を思う親の温かな心である 。

 

 

東進ゼミナール 学長 飯田陸三著 「何のために学ぶか」より