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二度もノーベル賞を受賞した女性~キュリー夫人~

~偉大な科学的進歩の陰には、気高い自己犠牲精神の発露がある~

女性は科学には弱い、と言う人がいる。本当だろうか。たしかに、歴史的に見ても女性の科学者は少ない。しかし、それは女性の置かれた社会的環境のせいであって、女性も機会が与えられれば素晴らしい科学的成果を出すことが可能である。マリー·キュリーは夫のピエールと共同で研究し、世界の科学史に残る大発見をした。ラジウムの発見である。彼女はこの功績により、世界ではじめてノーベル賞を二度も受賞した。

マリーは、一八六七年十一月七日にポーランドで生まれた。ちょうど徳川慶喜が朝廷に政権を奉還し、江戸幕府が終わりを告げた年である。家は貧しかったが、両親が学校の先生だったこともあり、五歳の頃から本を読むのが好きだった。父親の書斎にあった物理学や化学、歴史の本を片っ端から全部読んでしまったという。両親は、まだ幼いマリーに、将来世の中に役立てるよう自分の頭と心をよく使い、文化や知識をしっかりと身につけることが大切だと教えた。当時、ポーランドはロシアに支配されていたため、学校ではポーランド語やポーランドの歴史を教えることが禁止されていた。そんな逆境の中でもマリーは一生懸命勉強し、優秀な成績で女学校を卒業した。十五歳の年であった。それから九年間、つらい家庭教師の仕事をしながら家族を助けた。やっとパリに出て念願のソルボンヌ大学物理学部に入学した時、もう二十四歳になっていた。大学の授業はフランス語で進められた。ポーランド人のマリーにはフランス語の授業はチンプンカンプンで、一時はとてもついてはいけないとあきらめかけた。だが、マリーは「あきらめたら終わり」という信念があった。フランス語の猛勉強をし、ついに物理学で一番の成績をとってしまった。

二十八歳の時、同じ物理学者であったピエール·キュリーと結婚した。このころ、レントゲンがX線を発見。ついでベクレルが不思議な性質を持つ放射線を発見していた。キュリー夫人はこれに影響を受け、夫のピエールと共にウランの放射線の研究を始めた。皆さんもご存じのように、写真のフィルムはX線をあてると黒く感光する。フィルムにあたるX線の量が多ければ多いほど写真には黒く写る。人体に 線を通して撮影すると、肉の部分は 線を通過させやすいので黒く写り、X線を通過させにくい骨の部分は白く写る。これがいわゆる「レントゲン撮影」の原理である。ベクレルはウランから 線に似た強力な放射線が出ていることを発見した。

キュリー夫人は夫と共に研究を続けるうちに、ウランよりもっと強い放射線を出す物質があることが分かってきた。その物質は、ピッチブレンドという岩石の中にごく微量に含まれている。二人はそれをラジウムと名づけた。当時、世界中のどの科学者もラジウムという元素について気づいていなかった。ラジウムの存在を科学的に証明するためには、ある程度の量のラジウムを結晶として取り出さなければならない。その日から、キュリー夫妻の格闘が始まった。山のように積み上げたピッチブレンドを小さく砕き、それを粉状にすりつぶす。それを大きななべの中で煮沸し蒸留させる。この間にいろいろな薬品を混ぜて化合させる。こんな作業を幾度となく繰り返す。徹夜の作業が何日も続いた。大量のピッチブレンドからたった0.1グラムのラジウムを取り出すのに、なんと四年間もかかった。暗い実験室の中で、このラジウムはほのかな青白い光を放った。ラジウムの発する放射能はウランの百万倍以上の強さがあったのだ。キュリー夫人のラジウムの発見は、物理学と化学に大進歩をもたらした。ラザフォードは、キュリー夫人からもらったラジウムを研究し、ついに原子の構造を解明した。

ラジウムは現在もガンの治療などに役に立っている。しかし、キュリー夫妻はラジウムを取り出し研究する日々の中で、しだいにラジウムの発する強力な放射能によって体を蝕まれていった。放射能障害の最初の犠牲者であった。ある意味では、自らの健康を犠牲にして世界的な大発見をしたことになる。偉大なる科学的進歩の陰には、不屈の闘志と粘り強さ、気高い自己犠牲精神の発露があることを、私達は忘れてはならない。男だから出来る、女だから出来ない、というばかげた議論はもう止めたい。

「自分は人間として何によって世の中に貢献できるのか」という本質的課題に性差を超えて取り組んでいこうではないか。

岐阜県、可児、西可児、多治見、多治見北、美濃加茂、土岐、瑞浪、関、各務原の学習塾
東進ゼミナール 学長 飯田陸三著 「何のために学ぶか」より

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