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コラム

世界を明るくした発明家~トーマス·エジソン~

~天才ほど努力の大切さを知っている~

19世紀の終わりごろまで世界の夜は暗かった。ほの暗いガスランプの灯火がかすかに人々の手元を照らしていただけであった。今、私たちはこうこうと光る明るい照明のもとで、豊かなナイトライフをおくっている。これもエジソンのおかげである。エジソンが生涯に取った発明特許数はなんと1,000を超える。彼はまさしく天才である。電灯、蓄音機、映画など、私たちの生活を明るく楽しくする発明を次々と行った。しかし、彼はたんなる天才的発明家だったのではない。努力の大切さを人一倍知っていた。「天才とは1%のひらめきと、99%の努力である」という彼自身の言葉がそのことをよく物語っている。

エジソンは1847年2月11日に、アメリカのオハイオ州ミランで生まれた。子供の頃から好奇心が強く、「なぜなの?」「どうして?」と質問を連発した。学校の先生はそんなエジソンをひどく叱り嫌ったので、エジソンはとうとう小学校をやめてしまった。そのかわり母親が先生になった。母親のナンシーはまだ8歳のエジソンに対し、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」、ヒュームの「英国史」、シアースの「世界史」などを読ませた。12歳の頃には、ニュートンの「プリンキピア」という難しい数学の本を勉強させた。エジソンの類いまれなる発明の才能の陰には、子供の頃のこうした勉強で身につけた知識があったと言える。 

12歳の時、鉄道の車内売り子になり、いっぱしに稼ぎ始める。そして、その稼いだお金で実験道具を買い、車内で実験を続けた。皆さんもよくご存じのように、実験に失敗して火事を起こしてしまう。車掌にひどく怒られ、実験道具を全部捨てられてしまった。しかし、エジソンはそんなことで実験をあきらめなかった。15歳の時、自分の家の地下室に実験室をつくり、助手を雇って実験を続けた。世界初の列車内新聞「週刊ヘラルド」を発行し、大きな注目を浴びた。

1878年、エジソンは白熱電灯の研究を始めた。「世の中を明るくしたい」と心から思った。彼は不眠不休の研究生活に入った。数々の失敗を重ねたが、ついに電球の中を真空にしたうえで、白金を使って24燭光の光を出すことに成功した。しかし、高価な白金では実用的な電灯は作れない。エジソンは悩みつづけた。実験に疲れて頭を抱え込んでいた時、ふと目に映ったのが木綿の糸くずだった。エジソンはこの木綿の糸くずを手ごろな長さに切り、細い炭素線を作った。それを真空にした電球の中に封じ込め電気を通した。それは見事に明るい光を放った。1879年の10月21日、エジソンが32歳のことだった。この日は今でも「エジソン記念日」とされている。この電灯は45時間輝いて燃え尽きた。寿命が45時間ではまだ実用にならない。エジソンは長持ちする炭素線を作るには竹が良いということに気づいた。世界中に白熱電灯を作るのに適した竹を探すための特別部隊が派遣された。そして、日本の竹、その中でも京都府の八幡村の竹が一番良いということが分かった。こうして、日本の竹を使った白熱電灯が世界中の夜を明るく照らし出したのである。その後、竹に代わって人工の炭素フィラメントを使うようになり、エジソン電球の寿命は600時間を超すようになった。

「天才とは1%のひらめきと、99%の努力である」

エジソンは1,000を超す発明をしたが、名誉や地位にはあまり関心がなかった。自分の発明で人々の生活が豊かになることを何よりも生き甲斐にしたのである。私たちがエジソンから最も学ばなくてはならないことは、頭に浮かんだ着想を実現するために、彼が他の人の数10倍もの努力をしたという点である。努力なしにはどんな偉大なものも成就しない。努力の価値が軽んじられている現代において、もう一度、エジソンの「天才とは1%のひらめきと、99%の努力である」という言葉を深く噛みしめてみる必要がある。

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東進ゼミナール 学長 飯田陸三著 「何のために学ぶか」より

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