~人間の力をたくましく育て、鍛え上げていくのが、教育に他ならない~
徳川譜代の名門長岡藩も戊辰北越戦争に敗れた後、すさまじい苦境に立たされていた。城は焼け落ち、町も村も焦土と化した。敗戦による罰として、所領は7万4千石から2万4千石に減らされた。藩士たちはその日の食事にも事欠くような窮乏のどん底にあった。そんな時、分家の三根山藩から「窮乏を見るに堪えない。お見舞いをお届けする」といって、米百俵が送られてきた。これを預かったのが、長岡藩大参事の小林虎三郎であった。
さっそく小林虎三郎のところに藩士たちが押しかけてきて、「三根山藩から届いたお米を、我々に分けていただきたい」と迫った。虎三郎はこれに対し、「この米は分けない。この米を売って学校をつくり、長岡の将来を担う人材育成のために使う」と宣言した。これに怒った藩士の中には、刀を抜いて虎三郎に「米を分けろ」と迫った者もいたという。この時、虎三郎は平然として次のように語った。「なにかというと、米百俵、米百俵とわめきたてるが、百俵の米を藩中で分けてみたところでどれだけになるというのだ。この藩の者は頭数だけで8千5百人になる。百俵の米をこれだけの頭数で割れば、一人当たり4合か5合にしかならない。そのくらいの米は一日か二日で食いつぶしてしまう。それで終わりだ。それよりも、この百俵の米を元手にして、学校を作りたいのだ。学校を作って子供たちを教育し、将来を担う人材を育てたい。そうなれば、今の米百俵は、後に一万俵か、百万俵になるかも知れぬ。いや、米俵などでははかり知れない尊いものになるのだ。今のように先の見通しも立たないその日暮らしでは、長岡は立ち上がれない。新しい日本は生まれないのだ」
小林虎三郎は長岡藩が今のような悲惨な状態になったのは、危機に対してそれを見事に乗り切る人材の育成に藩が力を入れていなかったからだと知っていた。どんな困難な時にも教育に力を入れることを怠ってはならない、という信念を持っていた。そして、日々勢いを増す脅迫や恫喝を退け、独断で百俵の米を売り払い、全国に先がけて長岡に国漢学校を設立した。この学校から山本五十六をはじめとして、多くの人材、逸材が輩出されたことはよく知られている。
苦しい時こそ先を見通す力を。
苦しいときには、目の前のお金、目の前の物資にどうしても目がいってしまう。しかし、それではその窮乏、苦境を招いた根本原因を解決することは出来ない。すべてこの世のことは人間が作る。その人間がものごとを深く考え打開の道を切り拓いていく力を持たなければ、世の中はよくならない。この人間の力をたくましく育て鍛え上げていくのが、教育に他ならない。先行き不安な今こそ、二十一世紀の日本を支えるべき子供たちの教育のために、私たちはもっと力を入れていくべきではないだろうか。
岐阜県、可児、西可児、多治見、多治見北、美濃加茂、土岐、瑞浪、関、各務原の学習塾
東進ゼミナール 学長 飯田陸三著 「何のために学ぶか」より