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コラム

近代日本の担い手を育てた医者~緒方洪庵~

世のため人のために己の力を発揮する

緒方洪庵は今からおよそ200年前、備中足守藩(現在の岡山県)の下級武士の子として生まれた。家は貧しく病弱でもあったため、武士になることをあきらめ、「医者として世に出て、病気で苦しんでいる人々を救おう」と考えた。17歳の時に蘭医の中天游について勉強を始めた。修行中も生活は苦しく、玄関番をしたりあんまをしたりして学費を稼いでいたという。27歳の時、長崎に出て本格的にオランダ医学を勉強した。やがて、幕末における日本の蘭医学者の第一人者として認められるようになる。

 彼は、医学の心得に「人のために生活して己のために生活せざるを医業の本体とす」と書いている。「医者を職業とする人は、人のために尽くす精神の持ち主でなければならない。私利私欲のために医者を職業とする人は、医者として失格である。」とも述べている。大阪で初めて種痘を行い、天然痘で苦しむ多くの人を救っている。また安政5年(1858年)の夏、コレラが大流行して死者が相次いだとき、コレラの新しい治療法を本にまとめて刊行し、多くの人々を死の恐怖から救った。

 大阪で彼が医者として開業すると共に、適塾を開いて蘭学を教え始めた。全国各地から蘭学を目指す若者たちが集まり、適塾はいつも熱気にあふれていた。幕末から明治維新にかけて、近代日本の担い手として活躍した福沢諭吉、橋本佐内、大村益次郎、佐野常民、大鳥圭介らの人材がこの適塾から出ている。

 適塾では月に6回の試験があり、その成績の順位によって自分がすわる位置が決められた。窓際の明るい場所を占めるには、他の者よりも優れた成績を収めなければならなかった。また、そうした席につけるものは、仲間から大いに尊敬された。そのため、みんな必死に勉強した。私が東進ゼミナールのシステムを作るとき、緒方洪庵の適塾を参考にした。良きライバルたちと互いに競い合い切磋琢磨しなければ、本当の学力は身につかないと考えたからである。 子どもたちが良きライバルと競い合いながら大いに勉強し、将来世のために活躍できるような人間になって欲しいと切に願っている。

岐阜県、可児、西可児、多治見、多治見北、美濃加茂、土岐、瑞浪、関、各務原の学習塾
東進ゼミナール 学長 飯田陸三著 「何のために学ぶか」より

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