初代日本地図は約4万キロ歩いて作られた
伊能忠敬の名前を知らない日本人はまずいまい。彼は、江戸時代に全国を測量して歩き、正確な日本地図をつくった。中学社会の教科書に載っているので、一度みていただきたい。「これはすごい」と驚くほど正確な日本地図である。航空写真もなかった江戸時代に、なぜこのように正確な日本地図がつくれたのだろうか。
伊能忠敬は、49歳で家業を長男に譲ると江戸に出て、本格的に西洋の天文学を勉強し始めた。コペルニクスやケプラーの理論を学び、それを確かめるために天体観測に励んだ。その結果、緯度1度の長さは、28.2里すなわち110.7キロであることを測定し算出した。実にこれは、測定誤差1000分の1という正確さであった。彼は、このことを実際に確認したくて、幕府に測量を願い出たのである。やっと幕府から測量の許可が下りると、蝦夷の測量を始めた。西暦1800年のことである。
このとき、伊能忠敬は55歳であった。人生50年と言われた江戸時代において、とっくに隠居して余生を送っているような年齢である。しかし、真理を探究したい、正確な日本地図をつくりたいという思いに駆られて、彼は日本全国測量の旅に出たのである。方位盤で方位と角度を測量し、量程車や縄を用いて歩測で距離を確かめながら記録していった。険しい山を越え、深い谷を渡り、荒れ狂う海や川に遮られ、雨に打たれて野宿をしながらの気の遠くなるような作業を繰り返して、日本各地の地図を作成していった。実際に伊能忠敬が、年老いた足で全国を測量して歩いた距離は約4万キロ、これはほぼ地球を1周する距離と同じである。この彼の大事業は、71歳まで17年間に及んだ。度重なる旅の疲れで歯がボロボロに抜けてしまい、旅先での食事が満足にできないつらさを手紙にしたためている。
偉大なことを成し遂げるには、ロマンと好奇心、科学的知識や粘り強さ、正しい方法が必要である。伊能忠敬も小さい頃から読み書きそろばんが好きで、一生懸命勉学に励んでいた。そんな土台があったからこそ、鎖国時代の日本において、現代の私たちから見ても驚くほど正確で科学的な日本地図を作成することができたのであろう。決して基礎をおろそかにしてはならないのである。
岐阜県、可児、西可児、多治見、多治見北、美濃加茂、土岐、瑞浪、関、各務原の学習塾
東進ゼミナール 学長 飯田陸三著 「何のために学ぶか」より