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日本を今一度せんたくいたし申候~坂本竜馬~

生まれたときから既に偉人であった、という人はいない。

多くの日本人が今なお愛し、その偉業をたたえてやまない坂本竜馬も例外ではない。五人兄弟の末っ子に生まれた坂本竜馬は、小さい頃は寝小便たれで泣き虫小僧であった。男の子がこれではいけないと、弱虫竜馬を水泳や剣術で鍛えたのが姉の乙女であった。こうして竜馬は次第にたくましく成長してゆき、やがて千葉道場から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授かるほどになっていった。

 後に坂本竜馬は海援隊をつくる事になるが、この海援隊は武力を中心とした軍事組織ではなかった。欧米列強に負けない近代国家を作ることを視野に入れており、その隊員たちには航海術・天文学・気象学・算術・語学などを得意とする者も加わっていた。また出版事業にも手を出し、京都には書籍や鉄砲などを販売する直営店も置いていた。やっと鎖国から目覚めたばかりの幕末において、これほど世界的視野と行動力を持っていた人物は他にいない。

 不幸にして1867年11月15日、京都の近江屋で襲われ、33歳の若さでこの世を去った。その直前、長崎から大阪に向かう夕顔丸の船上で、後藤象二郎に明治新政府の礎となった「船中八策」を示している。第一策は徳川慶喜の「大政奉還」として実現した。第二策は「広く会議をおこし万機公論に決すへし」という明治新政府の五箇条の御誓文に活かされている。

 坂本竜馬はこのように、歴史上まれに見る傑出した人物であったが、同時に心優しい人間でもあった。寺田屋襲撃事件のとき自分の命を救ってくれたお龍と結婚し、鹿児島へ新婚旅行に連れて行ってあげている。日本で最初の新婚旅行であった。近代日本の夜明けをつくるため熱き志に燃えて命がけで生きながらも、人に対する温かい愛情を持ち続けた坂本竜馬から、今なお私たちは多くのことを学べるのではないだろうか。

テーマである「日本を今一度せんたくいたし申候」とは、坂本竜馬の手紙の中の言葉であり、長い幕藩体制の中で錆び付き身動き出来なくなってしまった日本を、もう一度洗濯してその錆を洗い流し、新しい近代国家として再建したいという竜馬の熱い思いがこもった言葉である。

岐阜県、可児、西可児、多治見、多治見北、美濃加茂、土岐、瑞浪、関、各務原の学習塾
東進ゼミナール 学長 飯田陸三著 「何のために学ぶか」より

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