インアクセサブル(接近不可能)
1957年、「未知の白い大陸」と言われた南極大陸の観測が、アメリカ·ソ連·イギリス·フランスなど第二次世界大戦の戦勝国の手で行われた。地球最古の大陸と言われていた南極には、地球の成り立ちを解くカギが眠っている。敗戦国である日本も、南極観測を実現して日本の科学の力を世界に示し、人々の沈んだ気持ちを吹き飛ばそうと考えた。まもなく、南極観測隊を送るための募金活動が全国で始まった。5円、10円と小銭を握りしめた子供たちが、募金に押し寄せてきた。「日本が南極に行く」、まだ粗末な衣服を身にまとっていたが、子供たちの目は輝いていた。
敗戦国日本に割り当てられた観測場所は、南極大陸のプリンスハラルド海岸。当時世界で最大能力の砕氷船を保有していたアメリカ海軍の報告書では、そこは「インアクセサブル」、即ち氷の厚い壁にさえぎられた接近不可能な地点と記されていた。そもそも南極への2万キロの航海が命がけのものとなる。航路は途中、ケープタウン沖の暴風圏を通らなくてはならない。そこは船の墓場と言われ、年中暴風が吹きすさび10メートルを超える大波が荒れ狂っている。その先には、氷の海である南氷洋が立ちはだかっている。あの巨大豪華客船タイタニックをも沈めた氷山が無数に漂う海である。スクラップになる寸前のボロ船「宗谷」を砕氷船に改造し、1956年11月8日、第一次南極観測隊は日本を出発した。
11月29日、宗谷はケープタウン沖の暴風圏に突入した。船は揺れに揺れた。揺れは最大で右に60度左に60度、合計120度にも達した。観測隊員たちはことごとく食べたものをもどし、胃液まではき尽した。宗谷は4日間かかって暴風圏を抜けた。やがて巨大な氷山が迫り来る海域に出た。アメリカ海軍がインアクセサブルと形容したプリンスハラルド沖合であった。宗谷は海に張り詰めた厚い氷を割りながら、越冬基地を設営するオングル島まで25キロの地点に船を進めた。しかし、そこから設営地点まで犬そりと雪上車で100トン以上の物資を運ばなければならない。途中には、パドル(氷の上の水溜り)やクラック(氷の割れ目)、プレッシャーリッジ(盛り上がった氷の壁)が無数にある。物資輸送は文字通り「命懸け」の作業であった。クラックに落ち込めばたちどころに凍死してしま,う。
南極越冬隊には、隊長の西堀榮三郎の他10名が選ばれた。再び宗谷が迎えに来てくれるまで、-50度、風速100メートルのブリザードが荒れ狂う南極で1年近くを過ごさなくてはならなかった。悪いことに、ある日ブリザードがすぎた後、今まで雪原だった場所が一面黒々とした海に変わり、そこに置いていた予備の食料や燃料が流されてしまった。食料で3分の2、燃料で半分ほどが失われた。観測用機材もほとんどなかった。これでは本当に生き残るだけで精一杯で、研究とか観測どころではない、とみんなが思った。隊員たちは気力を失い、基地にこもって麻雀に興じ始めた。西堀隊長はそれを見ると、煙草の空き缶で妙なものを作り、みんなに言った。「これで吹雪の中の雪を集め、雪の結晶の調査をする」。隊員の一人が「そんなもので、科学的な観測が出来るのですか」と尋ねた。西堀隊長は答えた。「やる前からダメだと諦める奴は、いちばんつまらん人間だ」。これを聞いて隊員たちの顔つきが変わった。基地建設担当の佐伯富男は、南極に来て初めて見たペンギンの生態の観察を始めた。雪上車の運転係の大塚正雄は、小さな穴が無数に空いた不思議な石に眼を奪われた。しかし、科学的知識はなく、自分に観測は無理だと思った。「とにかく、やってみなはれ」と西堀は大塚を励ました。やがて、みんながそれぞれに研究テーマを見つけ、観測に熱中していった。こうして、越冬隊は宗谷が迎えに来てくれるまでの期間、気象観測、オーロラ観測、地質観測、宇宙塵採取、海水調査、積雪放射能測定、生物標本採集などに粘り強く取り組んだ。彼らが行った観測結果は、後に世界を驚かすこととなった。大塚たちが手探りで集めた石は、南極が地球最古の大陸であることを証明するきっかけとなった。1958年2月11日、隊員11名は凍りついた南極から飛行機で救出され、日本への帰途についた。
まずは何でも『挑戦』しよう!
私たちの前に、時々「実現不可能」と思われる壁が立ちふさがることがある。「とても自分には出来ない」「逃げたい」と思うこともある。しかし、本当に実現不可能かどうかは挑戦してみなければ分からない。勇気を奮ってチャレンジしてみると、思いもかけず自分の中に眠っていた可能性が目覚めていくことを実感することも多い。「まずはやってみなはれ」の精神で、たった一度しかない人生を充実させていってほしい。
岐阜県、可児、西可児、多治見、多治見北、美濃加茂、土岐、瑞浪、関、各務原の学習塾
東進ゼミナール 学長 飯田陸三著 「何のために学ぶか」より