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21世紀新学問のすすめ~福沢諭吉~

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり

福沢諭吉は一万円札の「顔」として、また「学問のすすめ」を書いた人としてよく知られている。慶應義塾大学の創始者としてご存知の方も多い。

 彼は1835年、大阪にあって中津藩(現在の大分県)蔵屋敷で下級武士の子として生まれた。12歳の時、白石照山の塾に入り漢字を学んだ。20歳の時に大阪の緒方徒洪庵の適塾に入門して蘭学を学んだ。諭吉はここで猛勉強に励み、なんと22歳で適塾の塾長となっている。25歳の時、咸臨丸に乗り組んでアメリカに渡り、西洋の進んだ文明や技術に触れて大変なショックを受けた。その後、遣欧使節に加わって、フランス、イギリス、オランダ、ドイツなどを訪れている。江戸時代に計三回も欧米諸国に行っているのは、おそらく福沢諭吉くらいであろう。彼はこうした体験を通して、日本が欧米諸国に負けない強い国になるためには、学問しかないと考えた。

 1872年、37歳の時、福沢諭吉は「学問のすすめ」を書いた。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」で始まる有名な本である。この本は340万部売れた。当時の日本の人口は3500万人であったから、およそ10人に1人は「学問のすすめ」を買って読んだことになる。明治の人たちが学問の重要性をいかに真剣に考えていたかが分かる。「学問のすすめ」の最初の文を読むと、福沢諭吉は一見平等主義者であったように見える。しかし、必ずしもそうではない。続けて彼は次のように書いている。文章が難しいので現代の言葉になおして紹介したい。「けれども人間の世界をよく見ていると、賢い人もいればおろかな人もいる。貧しい人もいれば豊かな人もいる。こうした違いは、その人がよく学ぶ人なのか学ばない人なのかで生まれてくる。人には生まれながらにして貴賎貧富の差はない。ただ学問に励んでものごとをよく知る人は賢くなり豊かになるが、学ばない者はいつまでも貧しく愚かなままである。」

 1872年に学制が施行され、全国に小学校がつくられた。欧米列強に太刀打ちできる日本をつくるために、富国強兵・殖産興業が叫ばれた。そのため人材育成を目指し、教育が国家的事業として遂行されたのである。福沢諭吉の「学問のすすめ」がその思想的バックボーンになったのは間違いない。わずか数十年前まで、アジアの片隅で頑なな鎖国体制を続けていた日本が、瞬く間に先進国の仲間入りに成功したのは、明治新政府が教育立国の道を選択したからに他ならない。  「勉強は学生の時まで」という時代は、20世紀と共に終わった。今、アメリカ人も中国人もその他の国の人々も、日本人よりもはるかに一生懸命励んでいる。真剣に学ぶことを怠ってしまうと、資源をほとんど持たない日本は、遠からず世界でもっとも貧しい国になってしまうかもしれない。今こそ、福沢諭吉の「学問のすすめ」の精神を思い起こし、全ての日本人が学ぶことに真剣に取り組む時ではないだろうか。

岐阜県、可児、西可児、多治見、多治見北、美濃加茂、土岐、瑞浪、関、各務原の学習塾
東進ゼミナール 学長 飯田陸三著 「何のために学ぶか」より

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