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東進ゼミ発!ためになるページ

2012年07月03日 [雑学]

梅雨の起こるメカニズム

「梅雨はジメジメしてうっとうしい季節」と思っている人が多いのではないだろうか。しかし梅雨は私たちが夏を乗り切るために必要な水を蓄える大切な役割を担っている。東進ゼミナールの夏期講習でも梅雨に関連する「前線」については、入試問題に数多く出題されていることから、重要ポイントの一つとして深く取り扱っている。今回は入試にも役立つ理科シリーズの第一弾として「雲の正体」について考えてみよう。中学生以下のお子さんでもわかるように解説してあるので、ぜひこれを読んで理科に興味を持ってもらえたらと思う。

PART.1 雲の正体

雲の正体とは何だろう?

雨を降らせる白や灰色の雲。いったい何でできているか知っているかな?雲の正体は小さな水の粒(水滴)の集まりだ。わかりやすく言えば霧のようなもの。そう、上空にできた霧のことを私たちは雲と呼んでいるのだ。

上空に行くほど空気は膨張する。

上空の霧(水滴)はどこから現れたのだろう?

コップに冷たいジュースを入れてしばらく置いておくと、コップの周りに水滴が付く。なぜだろう。 これは冷たいジュースによってコップ周りの空気が冷やされ、空気中に含まれている水がコップに付いたからだ。目には見えないが、空気中には水が含まれている。これを水蒸気と言う。温かい空気はたくさんの水蒸気を含むことができるが、冷たい空気は少ししか含むことができない。空気が急に冷やされ、ある温度(露点)に達すると、空気中に含みきれなくなった水蒸気が集まって水滴になる。 それがコップに付いた水滴だ。だから霧も同じ理由で、急に気温が下がった日に発生するのだ。 (※中2理科学習内容。空気は温度によって含むことができる水蒸気の限界量が決まっており、これを飽和水蒸気量と言う)

コップに入ったジュースの写真

雲はいつできるのか?

高い山の上や飛行機の中でお菓子を食べようとしたら、お菓子の袋がパンパンに膨らんでいて、びっくりしたことはないかな?実は、高い場所ほど気圧が低いので、空気は高い場所に移動するほど膨らんでいく。密閉された袋の中で空気が膨らんだために袋がパンパンになったのだ。また、空気は膨らむと温度が下がる性質も持っている。上空に行くほど空気は膨らむので空気の温度は下がり、水蒸気が細かい水滴になって雲ができる。つまり、雲は何らかの理由で空気が上昇する(上昇気流)ときにできるのだ! さらに、雲の中で細かい水滴が集まって一定の大きさになると、空中に浮いていられなくなり雨となって地上に落ちてくる。

空気の上昇

どんな時空気は上昇するのか?

空気が上昇する理由はいろいろあるので、いくつか例を挙げてみよう。太陽の熱で地面が暖められ、その熱で地表付近の空気が暖められると一時的に膨張し、軽くなって上昇する(図1)。ガスバーナーで気球の空気を暖めると軽くなって空高く上がっていくのと同じだ。風が山にぶつかって山肌に沿って上がり、上昇気流を生ずることもある(図2)。また、暖かい空気と冷たい空気がぶつかり合うと、暖かい空気の方が軽いので冷たい空気の上にのし上がって上昇気流が生じる(図3)。そして暖かい空気と冷たい空気の境目を「前線」と言う。実はこの前線が日本に梅雨をもたらす原因なのだ。

PART.2 梅雨前線(ばいうぜんせん)

梅雨特有のすっきりしないお天気が続いています。でも、梅雨明けまであとしばらくの辛抱です。
今回は前回の「雲の正体」に続き、入試にも役立つ理科シリーズの第二弾。いよいよ「梅雨前線」の核心にせまります。
話の内容は主に高校入試レベルですが、「雲の正体」と併せれば、中学生以下のお子さんにも十分理解できる内容です。さあ、これから梅雨の起こるメカニズムを一緒に考えてみましょう。

雨を降らす雲はどこからくるか?

前回「雲の正体」を読んだ人はすぐに分かると思うが、もう一度簡単に説明しよう。細かい水滴の集まりである雲は空気の温度が下がると発生する。冷たいジュースを入れたコップの周りや、寒い冬、暖房のきいた部屋の窓に水滴がたくさんつくのと同じ理由だった。つまり空気が何らかの理由で急激に冷やされたとき、空気中の水蒸気は水滴となって現れる。それが上空では雲になり、身の回りではコップや窓に付く水滴になる。そして雲がたくさんできれば水滴がたくさん集まり、ある程度の大きさになると空中に浮いていられなくなって地上に落ちる。それが雨だ。

寒い外 温かい部屋 部屋 内側にくもりができる

天気予報でよく聞く「梅雨前線」。「前線」って何だろう?

地球上には、目には見えない様々な性質の空気の固まり(気団)があり、上空を移動している。温度の違う気団がぶつかり合う境目を前線面といい、前線面が地表とまじわったところを前線という。前線では温かい空気「暖気」と冷たい空気「寒気」がぶつかっているのだが、暖気は寒気より軽いので寒気の上にのし上がろうとする。そして上空にのし上がれば上昇気流となって温度が下がるので、たくさんの雲ができる。

前線では温かい空気「暖気」と冷たい空気「寒気」がぶつかっている 前線付近では雨が降っている

日本の周りの気団と梅雨前線

地日本の周りには四つの大きな気団がある。実はこれらの気団が日本の四季と密接に関係している。その中で、梅雨に関係するのが寒気の「オホーツク海気団」と暖気の「小笠原気団」で、両方とも海上にあるためとても湿っている。6月から7月にかけてこの二つの気団は、それぞれ北と南から近寄ってきて日本の上空でぶつかり前線を作る。ぶつかっても二つとも勢力が強いので、お互い押し合い一歩も動かない。気団を風船と考えればイメージがつかめるかもしれない。二つの風船を強く押しつければ、だんだん接する面が広がっていく。そう、これが梅雨前線だ。二つの風船が日本の上空でお互いを押し合い続けるうちは、梅雨前線は動かない。梅雨前線が動かないということは、日本の上空に水滴がたくさんついた冬の窓がずっとあるということだ。つまり、梅雨となり、長期間に渡って大量の雨を降らせることになる。

気団の図

梅雨前線の最後 夏が来た!

いくら日本の上空でがんばっている梅雨前線でも、ずっととどまり続けることはできない。「小笠原気団」が徐々に勢力を拡大し、「オホーツク海気団」をどんどん北に押し上げていく。最後には「オホーツク海気団」は力尽きて日本の上空から撤退する。そして「小笠原気団」が日本をすっぽり覆ってしまうと、とうとう梅雨が明け、暑い夏が来るのだ!

中部・関東地方の梅雨明け 図

東進ゼミナールは、地域の教育機関として、子ども達の学力アップの為の支援をしていきたいと考えています。そのため、生徒募集広告などの機会を通じて少しでも子ども達が勉強に興味を持ってくれるような情報を掲載しています。
不思議だな、なぜだろう?
東進ゼミナールは子ども達のそんな思いを大切にします。

2012年07月03日 [雑学]

なぜ明石市が日本の標準時なのだろう?

「ピッ・ピッ・ピッ・ピー」お昼の12時、正午の時報が鳴りました。誰もが「お昼ご飯だ!」と思いますね。毎日私たちは時刻をもとに一日のスケジュールを決めています。例えば朝時計の針が7時を指したら「あと30分は寝られるな」とか、夜6時を指したら「アニメが始まるからテレビをつけよう」など、時計を見て行動を決めています。中にはうっかり大事な約束に遅れないよう、携帯電話のアラームをセットしている人も見かけます。今や私たちは時計なしで生活を送ることはできません。



地図

▲クリックすると拡大表示されます(pdfファイル374KB)

●大昔の時計は太陽だった

時計が生まれるずっと前、人々は太陽の動きに合わせて生活をしていました。太陽が昇れば朝、沈みかければ夕方、沈んだら夜という、太陽が大空を一周する動きに合わせて生活パターンを決めていました。私たちは正午の時報を聞いて「お昼」を知りますが、昔の人にとっては自分の真南に太陽が来たときが「お昼」でした。でも地球は自転しているので、地域によって太陽が真南に来る時刻は少しずつずれていきます。例えば岐阜県では太陽が真南に来ていても沖縄ではまだですし、もっと遠いヨーロッパでは真夜中です。ですから昔は各地域で、ばらばらの時刻を使っていました。各地域の人々が太陽の動きに合わせて、それぞれ自由に時刻を設定したからです。



●やがて標準時が必要になった

十九世紀に入り世界は急速に近代化が進みました。もちろん交通網や通信システムも国を越えどんどん発達していきました。近代化が進めば進むほど、各国・地域が何の基準もなくばらばらの時刻を使っていることに不都合が生じてきました。そこで時刻に国際的な統一性を持たせるために、世界時間の基準となる経線(本初子午線)を決めることになりました。すると本初子午線の候補地として、フランスとイギリスが名のりをあげました。各国の投票の結果、一八八四年、世界の標準時の基本となる経度0の本初子午線がイギリスのグリニッジ天文台を通ることに決まりました。そして、経度が15ずれるごとに時差は一時間と設定されました。これを基に世界の国々は自分の国の標準時を決めていきました。標準時のもとになる経線(子午線)を決めるのには、15の倍数にすると時差の計算がしやすく、大変便利です。さあ、日本はどこの経線に合わせて標準時を設定したのでしょう。日本は東経122から153の範囲にあります。その中で15の倍数の経線は東経135と150の二本です。そのどちらかを選ぶのですが、150では南鳥島の近くなので、あまりに東に偏りすぎてしまいます。そこで135の経線が日本の標準時子午線と決定されました。その子午線が通過している市町村の中に明石市があったのです。



●子午線を通るのは明石市だけではなかった

当然135の子午線が通る市町村は明石市だけではありません。現在12 市が子午線をまたいでいます。その中で明石市が日本の標準時に選ばれた理由は、当時、明石市が最も大きい都市だったからだけではありません。明石郡内の小学校の先生方が月給の一部を出し合い、子午線通過地に日本で初めての標識を建てるなど、他の市町に先がけて標準時の重要性を認識し、内外に訴えてきたことが大きいと言われています。さあ、お昼の時報が鳴りました。今、明石市の真南には太陽が輝いているはずです。

◎東進ゼミナールは、地域の教育機関として、子ども達の学力アップの為の支援をしていきたいと考えています。そのため、生徒募集広告などの機会を通じて少しでも子ども達が勉強に興味を持ってくれるような情報を掲載しています。不思議だな、なぜだろう?東進ゼミナールは子ども達のそんな思いを大切にします。

2012年07月03日 [雑学]

県名と県庁所在地が違うのはなぜだろう?

社会の授業で出てくる、県名と県庁所在地名。苦労して覚えた人も多いでしょう。さて日本地図を見て何か気づいたことはないでしょうか? そう、県名と県庁所在地名を暗記するとき、鹿児島県-鹿児島市のように、県名と県庁所在地名が全部一致していれば楽に覚えられますが、兵庫県-神戸市のように一致していない都市があるのでやっかいです。現在県名と県庁所在地名が異なっている都道府県は十八、残りの二九は一致しています。どうして同じところと違うところがあるのでしょうか。



地図

●最初は県名と県庁所在地名は一緒だった

一八六七年の大政奉還で政権が江戸幕府から明治政府に移ると、政府は旧幕府の領地を府・県とし、全国にいる大名の領地を藩としました。大名は知藩事として藩に残ることを許されたので、引き続き大名が藩を治めるかに見えました。
ところが政府は一八七一年の廃藩置県で、今度は全ての藩を廃止して県に置き換え、知藩事をやめさせて新しく県令を派遣すると発表しました。幕府時代の体制をくずし、中央集権化を進めるための政策でした。そして藩の名前は新しい県の名前へと受け継がれ、最初は県名と県庁所在地名は一致していました。



●分割・統合の混乱の中、突然色分けされた県名と県庁所在地名

ところが政府はほとんど全ての藩をそのまま県に置き換えてしまったので、廃藩置県直後の県の数は、三〇二もありました。おまけに各県の境界線は複雑で、飛び地も多く、県内の行政には不都合でした。そこで廃藩置県が実施された同年末に、大きすぎる藩(県)は分割し、小さすぎる藩(県)は近くの大きな藩(県)に統合していきました。その分割・統合の混乱にまぎれ、県名と県庁所在地が一致しないところや名前を変えられたところが生まれたのです。



●明治政府は忠勤藩と朝敵藩で県をランク分けした?

県名と県庁所在地名が一致しない県を調べていくと、明治維新のときに最後まで江戸幕府に味方して政府に反抗した朝敵藩や曖昧な態度をとっていた曖昧藩が多いことがわかります。例えば、盛岡藩(岩手県)や仙台藩(宮城県)などです。一方、薩摩藩(鹿児島県)や長州藩(山口県)などは、明治維新に大変貢献したので忠勤藩と呼ばれ、県名と県庁所在地名は一致しています。薩摩藩の正式な名前は鹿児島藩、長州藩は山口藩なので、これらの藩は藩名がそのまま県名と県庁所在地名両方に残されています。名誉なことですね。ところが朝敵藩の中には、大きな藩であったにもかかわらず統合の過程で消されたり名前が変えられたりして、県名にも県庁所在地にも名前が残されなかったところがあります。徳川の御三家のうち名古屋藩や水戸藩も県名には残っていませんね。では朝敵藩なのに県名と県庁所在地が一致しているところはないでしょうか。会津藩(福島県)や米沢藩(山形県)は朝敵藩ですが県名と県庁所在地名が一致しています。でも、両藩とも県名にも県庁所在地名にも藩名は残されず、変えられてしまいました。明治政府は自分たちに反抗した藩の名前を、混乱の中で抹殺していったのでしょうか。もちろん、県名と県庁所在地名の取り決めについてはこの他にもいくつか理由はあるようですが、明治政府に何らかの意図があったのではと考えられています。県名と県庁所在地名が同じかそうでないかという単純な事柄のなかに、当時の人々の思いが見えてきます。

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2012年07月03日 [雑学]

参勤交代にかかった費用を今のお金にするといくらになるのだろう?

何百、何千人もの家来を従えた大名行列。徳川幕府は大名統制のため、一年おきに江戸と国元の間を往復させ、将軍への忠誠を示させました。さらに、妻と子を江戸に人質として住まわせ、幕府の監視下に置きました。これが一六三五年三代将軍家光によって制度化された「参勤交代」です。



絵

●加賀藩はなんと三千人以上の大名行列

江戸時代の大名の中で最も石高の高かった加賀藩(百万石)では、四月に江戸に向かい、翌年六月に帰国するのが年中行事でした。参勤交代に加えてよい人数は、大名の石高に応じて幕府に決められていました。例えば、二十万石以上の大名では、馬上二十騎、足軽百三十人、仲間・人足三百人、全部足して最大四百五十人です。ところが、二十万石以上の大名の中でも、加賀藩はトップクラスの百万石。加賀藩では家臣の石高が小大名クラスの五万石を超えている人もいました。そのような家臣が馬上二十騎に入って行列に加わるのですから、馬に乗っているのは二十人でも、その二十人についてきた家来がそれぞれ数百人ずついるとしたらどうなるでしょう。総勢三千人は軽く超える大行列になってしまいます。



地図

●日数節約のため、一日四〇キロの強行軍!

参勤交代に要する日数は、加賀藩で十三日~十五日、最も遠い薩摩藩では一か月もかかりました。長い距離をたくさんの人で何日も旅するのですから、その費用は大変なものでした。費用は江戸から遠ければ遠いほどかかったので、どの藩も日数を節約するために一日約四十キロも歩きました。朝暗いうちに出発して夜まで歩き宿に泊まるのですが、加賀藩のような何千人もの大部隊が一つの宿場町に全員泊まることは無理でした。ちょうど大名行列が泊まる日にぶつかると、どこの宿屋も一杯で、商人などの旅人は野宿するしかありませんでした。

●経済効果はバツグン? 参勤交代の費用。

さて、参勤交代にかかる費用を現在の貨幣に換算してみると、一体いくらになるのでしょうか。加賀藩の場合だと、毎日数千人分の宿代と食事代、馬のえさ代がかかるのですから大変です。宿代だけで一晩三千万円以上といわれています。さらに困ったのは、川を渡ることでした。当時主な川に橋はなく、東海道の大井川のように「川越人足を頼まないと川を渡れない」という川もありました。これでは川を渡るたびにお金がかかってしまいます。一つの川を渡るのにだいたい五十万円から二百五十万円ほどもかかりました。そんな旅を十三日間続けた場合の総費用を、米の値段を基準にして現在のお金に換算すると、なんと五億円以上かかった計算になります。



●最大の目的は大名の力を弱めること。

参勤交代にかかる費用と一年間の江戸での滞在費は莫大なもので、藩の財政を圧迫していきました。もし参勤交代がなければ大名行列が江戸と国元を往復することもなくなります。江戸に家を建てて暮らす必要もなくなり、それらにかかる費用もいらなくなります。参勤交代は各大名にたくさんお金を使わせて、力を弱めさせるもととなりました。幕府の権力を絶対的なものにし、反抗させないためにとりいれた制度なのです。一方、参勤交代のために街道や宿場町がどんどん整備され、大名行列が使う莫大な費用によって栄えました。さらに、一年ごとに地方と江戸を大勢の人が往復するので、江戸の文化を日本のすみずみに広めていく効果も生まれました。

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2012年07月03日 [雑学]

遣明船の帆は、ムシロでできていた? ~勇気とチャレンジ精神が、今日の日本をつくった。

何百、何千人もの家来を従えた大名行列。徳川幕府は大名統制のため、一年おきに江戸と国元の間を往復させ、将軍への忠誠を示させました。さらに、妻と子を江戸に人質として住まわせ、幕府の監視下に置きました。これが一六三五年三代将軍家光によって制度化された「参勤交代」です。



絵

▲「真如堂縁起絵巻」真正極楽寺所蔵



上の絵をよく見てください。この船は室町時代に中国の明との貿易で使われていた遣明船です。当時としてはもっとも大型の船でした。しかし、船の帆をよく見てみると、ムシロで出来ていたことがわかります。船の帆といえば、普通は木綿で出来ているのですが、実は木綿が船の帆に使われるようになったのは、室町時代の終わり頃からでした。だから、遣隋使船や遣唐使船も竹で編んだムシロの帆を使っていたのです。ところでよく考えてみると、ムシロの帆は、風雨にさらされると水を含み重くなります。このため、船の重心がくずれて転覆しやすくなります。また強い風が吹くと破れてしまうことがありました。遣唐使も最初のころは一隻の船で航海していたのですが、たびたび沈没して、唐まで行き着けないことが多かったので、そのうち四隻で船団を組んで行くようになりました。四隻のうち一隻でもたどりつけばよいという考えだったようです。
このような危険を冒して、日本は昔から進んだ大陸の文化を取り入れていたのです。仏教文化、建築や機織りの技術、製鉄や製紙の技術もこうして日本に伝わってきたものです。大波が渦巻く日本海にムシロの帆を立てた船で出かけていく先人達の勇気、これがなかったら今日の日本の文化や文明はもっと遅れていたことでしょう。東進ゼミナールは、チャレンジ精神を持った二十一世紀のリーダーとなれる子ども達を育てていきたいと考えています。
ムシロ【筵】・・・・稲や麦の茎を乾燥させたもの(ワラ)などで編んだ敷物


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2012年07月03日 [雑学]

ジョン・万次郎 ~幕末に日本とアメリカの架け橋となった男~

ジョン・万次郎という名前は日本人なら誰もが聞いたことはある。しかし、彼が近代日本の夜明けにどれほど貢献したかを知る人は少ない。アメリカ合衆国第三十代大統領クーリッジは「ジョン・万次郎の帰国は、アメリカが最初の大使を日本に送ったにひとしい」と語っている。それほどの人物でありながら、歴史の中にうずもれてしまっているのは、彼が貧しい漁民の生まれのせいであったかも知れない。一八四一年一月五日、万次郎は四人の漁師らとともに土佐湾宇佐ノ浦から出漁。十四歳の時のことであった。嵐にあい漁船は漂流、無人島の鳥島にたどり着いた。島に生息するアホウドリの生肉などを食べて飢えをしのぎ、五ヵ月後の五月九日にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救出された。万次郎の名前に「ジョン」とついているのはこの船の名前に由来している。船長のホイットフィールドは五人の日本人漁師をとても親切にもてなしてくれた。



ハワイのホノルルに連れて行き、住む家や仕事の面倒まで見てくれた。異国の地で英語を一生懸命学ぼうとしている万次郎にほれ込んだ船長は、彼をアメリカまで連れて行き、自分の家に住まわせながら学校に通わせた。当時、アメリカにいた日本人は万次郎ただ一人であった。周囲の好奇の目にさらされながらも、万次郎は必死に勉強し、ついにはバートレット高等学校への進学を許され、そこで航海術や天文学を学んだ。彼は貧しい漁師の家の生まれであったため寺子屋も出ていなかったが、持ち前の好奇心と熱心さで難しい科目も次々に習得していった。



▼ジョン・万次郎 27歳の時の肖像画

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▼ホイットフィールド船長と晩年のジョン・万次郎

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▼高知県土佐清水市「ジョン万ハウス」

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ハワイのホノルルに連れて行き、住む家や仕事の面倒まで見てくれた。異国の地で英語を一生懸命学ぼうとしている万次郎にほれ込んだ船長は、彼をアメリカまで連れて行き、自分の家に住まわせながら学校に通わせた。当時、アメリカにいた日本人は万次郎ただ一人であった。周囲の好奇の目にさらされながらも、万次郎は必死に勉強し、ついにはバートレット高等学校への進学を許され、そこで航海術や天文学を学んだ。彼は貧しい漁師の家の生まれであったため寺子屋も出ていなかったが、持ち前の好奇心と熱心さで難しい科目も次々に習得していった。



また、万次郎は礼儀正しく優しい人柄であったために、多くのアメリカ人から信頼され、フランクリン・ルーズベルト大統領の祖父にあたるデラノ二世にも可愛がられている。おじいさんにジョン・万次郎のことを小さい頃から聞かされていたルーズベルト大統領は、日本人に対してとてもよい印象を持っていたそうである。航海術を学んだ万次郎は捕鯨船に乗って世界の海で活躍した。後に副船長にもなっている。彼には「なんとかして生まれ故郷に帰り、おっかさんに一目でも会いたい」という願いがあった。しかし、当時の日本は鎖国政策をとっており、沿岸に近づく外国船は乱暴な方法で追い返されていた。また、海外渡航禁止令があったので、日本にたどりついたとしても死刑になる可能性もあった。しかし、万次郎の思いは強く、ついに一八五一年、琉球(今の沖縄)にたどりついた。薩摩藩士にとらえられ取調べを受けた後に長崎奉行の調べを受けた。ここでは投獄され踏み絵も受けさせられた。

しかし、土佐藩も幕府も万次郎が当時の日本ではただ一人英語を上手に話せる人であったために、武士に取り立て丁重にもてなした。ペリー来航のおりには通訳の役にも採用され、勝海舟のアメリカ行きにはやはり通訳として咸臨丸に乗り込んだ。明治新政府からは開成学校(後の東京大学)の教授にも任命されている。漂流の末たどりついた異国の地アメリカで、多くの苦難を乗り越えながら英語を身につけて明るく強くその近代的・民主的な文化を学び、真の意味での日本とアメリカの架け橋となったジョン・万次郎。

彼のまじめででひたむきな向学心は当時のアメリカ人の日本人観にとてもよい印象を与え、それは今も引き継がれている。世界のグローバル化の波の中に巻き込まれていく現代の日本において、私達は彼の生き方から多くのことを学ぶことが出来るのではないだろうか。
最後に一言、若い皆さんには、英語だけは、ぜひ使えるようにしてほしい。

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